コタの療育での様子を書く前に、なぜコタが療育に通うようになったのかを書こうと思う。
コタの身体がどういう状態なのかを詳しく記したほうが、読む方にも分かり易いと思ったからだ。
それを説明するには、話は出産のときにまでさかのぼる。
コタの出産は、私にとっては辛い記憶である。
出産時の状況と、当時の自分の感情を思い出すことが怖いので、今まであまり考えないようにしてきた。
でも、出産から2年以上経ち、今はコタと楽しく暮らすことが出来ているから、今ならもう大丈夫だろう。
あの時の暗い絶望的な気持ちに引きずられることはないだろう。
私の妊娠生活は順調そのものだった。
出産予定日の前日の朝、寝ているとちょろちょろと何かが流れた。
下着が濡れていた。
あれ。破水?
実は以前、尿もれを破水と勘違いして慌てて病院に駆け込んだことが2回あった。
また尿もれかな。それとも破水かな。
匂いは何となく生臭い。
破水っぽい気がする。
病院に連絡し、入院の荷物を抱えて病院へ向かった。
車の中で「今回もおもらしだったら恥ずかしー」と夫と笑って話していた。
まさに三度目の正直と言うものか。
本物の破水だった。
いよいよ赤ちゃんに会える!と言うことで、夫はずっと病室でニヤニヤしていた。
この時子宮口はゼロで、産婦人科医歴47年のベテランの主治医の先生に「産まれてくるのは明日のお昼頃かなー」と言われる。
子宮口を開く処置をされたが、まだまだ何の痛みも無く余裕の私も、出産間近の妊婦の下僕となった夫が買ってきた高級エクレアとハーゲンダッツを手にニヤニヤしていた。
陣痛は夕方から始まった。
23時の時点で子宮口がようやく3センチ。
だんだん痛みは増し、明け方には骨が砕けるかのような痛みになった。
助産師さんに腰をマッサージしてもらい、夫の腕に爪を立てながらこらえ続けた。
私は、この時の「いきみのがし」がうまく出来なかった。
力が入って、練習した通りに呼吸法が出来ない。
息を吐いているんだけれど、ちゃんと吐けているのか分からない。
お腹に力が入り、腹筋がプルプルしているのが分かる。
母親学級での『お母さんが息を止めてお腹に力を入れちゃうと赤ちゃんが苦しくなるから、いっぱい呼吸をして酸素を送り込んであげてねー』という助産師さんの言葉が頭をよぎる。
「大丈夫。上手に出来ているわよ~」と腰をさすりながら助産師さんは言ってくれたが、私は「出来ない!出来ない!」と叫んでいた。
力んじゃいけないのに、力むことしかできなくて、ほぼパニックになっていた。
11:30にようやく分娩台へ。
激痛でふらふらになった頭と身体で、どうにか分娩台に上る。
これでやっと赤ちゃんを出せる。
もういきみをのがさなくていいんだ。
叫びながら。
ゲロを吐きながら。
うんこを漏らしながら。
全身に残っている全ての力を振り絞った。
どぅるん、と赤ちゃんが出たのが分かった。
すっと、嘘のように痛みが消えた。
12:08 出産。
しかし産声が聞こえない。
先生や助産師さんがバタバタと何か処置をしているのが分かる。
「赤ちゃん、泣かない」
そう私が夫に呟くと、夫は私を見ずに「うん」とだけ言って、黙って処置をされている赤ちゃんの方を見ていた。
先生や助産師さんが笑顔で私に「大丈夫よ」「今泣こうとしているよ」などと言っている。
分娩台に横になっている私からは、赤ちゃんの姿は見えない。
「吸引」という声が聞こえる。
先生が心臓マッサージらしい動きをしている。
助産師さんが酸素ボンベを持っている。
もう1人の助産師さんが小児科の先生を呼ぶ。
呼び出しボタンが不調らしく、内線をかける。
12:15 小児科の先生が来る。
その男の先生は、なぜナースコールを鳴らさない、と怒っている。
先生が赤ちゃんの元に行く。
赤ちゃんの、力無くぐずっているような声がわずかに聞こえる。
「おぎゃー」と元気に泣いてくれない。
私の母親は、赤ちゃんは産声をあげて頭に酸素が行くのだと言っていた。
泣かないと。
このままじゃ酸素が行かなくなっちゃう。
赤ちゃん死んじゃう。
どうしよう。
どうしよう。
早く泣いて。
早く。
お願い。
どのくらい時間が経ったのか。
赤ちゃんは自発呼吸ができた。
この前後の私の記憶は曖昧で、断片的にしか覚えていない。
小児科の先生が私に、赤ちゃんは「新生児仮死」で産まれてきたので、専門の病院で検査をすると言った。
主治医の先生は、羊水が濁っていて、赤ちゃんが胎便を飲んでしまっていた、肺を調べる、脳ももっと詳しく調べる、と言った。
え?
何が起きたの?
赤ちゃん、大丈夫なの?
胎便を飲んでしまったって何?
だって問題なかったのに。
産まれるまで何もなかったのに。
私がちゃんといきみのがし出来なかったから?
だから赤ちゃん泣けなかったの?
私の赤ちゃん、どうなっちゃうの?
会陰切開の傷を縫ってもらっている間、ただ茫然としていた。
縫合の痛みなんて感じなかった。
夫は廊下に出て小児科の先生と話していた。
その後、私の処置も終わり、夫も戻ってきて、分娩台から2メートルほど離れた所の台に寝かされている赤ちゃんを一緒に眺めた。
赤ちゃんは足をバタバタさせたり、お口に手を持って行ったりとぴょこぴょこ動いていた。
突然ぱちっとお目目が開いて、小児科の先生が「あ、開いた」と小さく言った。
分娩室は静かだった。
機械の音と、時々先生たちがぼそぼそ話す声が聞こえる。
夫が、「かわいいな、あいつ」とぽつりと言った。
私もおんなじことを思っていた。
産まれたての赤ちゃんは、ガッツ石松か鶴瓶さんかと言われるが、我らが赤ちゃんはそのどちらでもなく、はたまた朝青龍でも田中邦衛さんでもない。
お目目がくりくりで、とってもかわいい。
そのかわいい我が子と、先生たちがさきほど言った言葉がうまく繋がらない。
しんせいじかし。
のうのけんさ。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、小児専門病院の先生方が来た。
分娩室内の人が多くなった。
赤ちゃんの様子が落ち着いているので、抱っこさせてもらい、写真を撮った。
夫が間近でフラッシュをたいてしまい、赤ちゃんが泣きだした。
夫が「すいません」といい、助産師さんに「いいのよー」と言われていた。
ーこんなどうでもいいことばかり覚えている。
先生たちは小児専門病院に連れて行くことを、『念のため』だからと何度も言った。
みんな、大丈夫、と私を安心させてくれた。
主治医の先生も「回復しているし、脳に障害があるようなことは無いだろう」と、大丈夫だと、言ってくれた。
47年の大ベテランの先生がそう言うんだ。本当に『念のため』なんだろう。
赤ちゃんと夫が救急車で小児専門病院に向かった。
サイレンが遠ざかる。
私はそのまま分娩台の上で眠った。
ーきっと大丈夫ー
≪つづく≫