翌日、夫と私は先生に説明してもらう時間を再度設けてもらった。
昨日と同じ部屋で、MRIの画像を見ながら説明を受けた。
脳の画像には白い点々がたくさんあった。
そこが酸素が行かなくて組織が影響を受けたところだと言う。
白い点々は脳全体にちらばっていた。
「『広範囲』にダメージを受けています」と、先生は言った。
ーこれからどういう影響があるか分からない。
ー何もないかもしれないしあるかもしれない。
ーこればかりは成長していかないと分からない。
私たちは何度も、どういう病気や障害が出そうか尋ねたが、先生ははっきりとは答えてくれなかった。
答えてくれないと言うより、答えられないのだろう。
きっと「ここにダメージがあるから将来こうなります」とは言い切れないのだ。
救いは、先生の「子どもの脳はすごい力を持っている。足りない部分を他の部分が補って成長していける力を持っている」
という言葉だった。
この言葉は3年近く経った今も忘れない。
私に希望をくれる。
先生の説明を終えて、納得した、という表現はしっくりこないが、今の赤ちゃんの状態をしっかり理解することができた。
仮死になった原因は小児病院では分からないので、出産した病院に戻って、先生と助産師さんに分娩時の詳しい様子を聞いた。
・臍帯→お腹のあたりにぐるぐる(普通のこと)。首には巻き付いていない。
・胎盤→特に異常なし。
・羊水→やや黄色っぽいが、すごいドロドロではない。
・胎便あり。たらこくらいの大きさ。
・モニターは下がることもあったが戻っていた。つまり正常だった。
・出てきたとき、赤ちゃんはぐったりしていて胸がへこんでいた。先生がすぐに心臓マッサージ開始。10分後に「おぎゃー」
要するに、分娩の際に異常はなかったということだった。
なぜ仮死状態になったのかは分からないと。
先生は「出てきたら、赤ちゃんは黒くてぐったりしてて、なんじゃこりゃと思った」と言った。
「47年やってるけど、こんなこと初めてだ」「私は来月引退するのだけど、このお産のことは一生忘れない」とも言っていた。
この時、私は先生に不信感をもっていた。
先生、脳に障害はないだろうって言ったのに。
何であの時そう言ったの?
私にショックを与えないため?
気休めなんかいらないよ。
…本当にお産の時異常はなかったんだよね?
本当だよね…?
今から考えれば、先生の処置は適切だったのだろうし、経過説明も丁寧だった。
赤ちゃんの心配をしてよく病室まで話を聞きに来てくれたし、もともと初回の診察時から優しいおじいちゃん先生だった。
でもこの時は気持ちが不安定だったせいか、心が黒い方に黒い方にいってしまっていた。
行き場のない不安と悲しみをどこかにぶつけたかった。
誰かのせいにしたかった。
だって、私のせいだから。
助産師さんに『仮死状態になった原因は不明だけど、ぶたこさんがいきみのがしが上手くできなかったせいではない』と言われていたが、
私は自分のせいで赤ちゃんがこうなったと思っていた。
周りがいくら違うと言っても、そうなんだと思い込んでいた。
私が上手く産めなかったせいで、赤ちゃんが苦しくなった。
全部私が悪いのに、悪いのが全部赤ちゃんに行ってしまった。
私のせいで、この子は大変な一生を送らないといけないかもしれない。
全部私のせいだ…。
思えば、産んでから3か月位までは毎日泣いていた。
暇さえあれば、ネットで「低酸素性虚血性脳症」の情報を検索しまくっていた。
しかし、この病気について詳しいことはあまり載っていない。
載っていたとしても、「予後が悪い」や障害名など、見たくない言葉がいっぱい出てくる。
そして不安になって泣く。
夫に「もう見るのやめな」と言われて、そうだなと思って携帯を置くが、やっぱり夜寝る前に気になって気になって検索魔になってしまう。
そして不安で泣く。
自分のせいだと泣く。
この繰り返しだった。
でも、翌日、赤ちゃんに会うとホッとした。
生きている。
動いている。
特におっぱいをあげている時。
何とも言えないやわらかい気持ちになる。
うまく乳首を吸えなくてふぇ~と泣いたり、
飲みたくないーって両手をぐーっと突っぱねたり、
お目目をつむってこきゅこきゅと音を立てながら飲んでいると思ったらいつのまにか寝ていたり、
おっぱいを飲みながらニヤリと笑ったら乳首が口から外れて泣いたり。
あらら。おばかさんね。
もうちょっとよ。
がんばれがんばれ。
いっぱい飲んでね。
黒い気持ちが浄化されていく。
不安な気持ち。
幸せな気持ち。
私のせいだと攻める気持ち。
大丈夫、親としてできることをしっかりやろう、という強い気持ち。
この間を行ったり来たり。
この行ったり来たりは、今現在も続いている。
子供がいくら成長しても、私はこの気持ちをずっと抱えながら生きていくんだろうな。
最初に1人で先生の説明を受けた後に夫に電話をしたとき、電話口では落ち着いていた様子の夫だったが、電話の後は仕事をしながら泣いていたと知った。
辛いのは私だけじゃない。
泣きたいのも私だけじゃない。
夫も辛いし、何より赤ちゃんが一番辛い。
私がしっかりしなくては。
悲しいけれど診断は下りてしまった。
赤ちゃんには病気がある。
それはまぎれもない事実。
不安はあるが、やれることをやるしかない。
私自身は予定通りに退院し、小児病院で朝から夜まで赤ちゃんと一緒に居ることができるようになった。
おっぱいをあげて、沐浴をして、爪を切って、抱っこして、あやして、寝かしつけて。
赤ちゃんと面会時間ずーっと一緒に過ごした。
赤ちゃんは、夜は時々酸素を吸っているが、状態は安定しているようだった。
そして、小児病院に入院してから11日後、ついに退院の日程が決まった。
赤ちゃんに医療的ケアが必要ではなくなったのだ。
退院は5日後。
2度目の先生の説明があり、夫と2人で聞いた。
・退院後は特別なケアはいらない。普通の赤ちゃんと同じように生活する。
・仮死状態になった原因として小児病院で言えることは、
☆羊水が濁っていた(うんちが出ていたため。うんちは神経の反応で出る)
☆出産時、赤ちゃんにストレスの反応あり。(どんな?分娩時?その前?長時間?←これは出産した病院で聞く)
・発達については小児病院で診る。
・かかりつけ医や予防接種は、家の近くの総合病院で。紹介状を書くので、早めに顔合わせをし、カルテを作ってもらうこと。
・年単位で発達を見ていく。色んな可能性がある。
という内容だった。
つまり、普通に生活はできるが、5年10年とフォローをしていく必要があり、今後小児病院へ通院する、ということだった。
予想していた内容だったので、落ち着いて話を聞くことが出来た。
退院の前夜、赤ちゃんと夫と3人で、病院のファミリールームに泊まった。
ここは退院の前に家での生活に慣れるために家族が泊まれる部屋。
夫はやたらはしゃいでいた。
はじめて夜間授乳をした。
私は興奮でほとんど眠れなかった。
家に帰れる嬉しさと、不安。
これからどんな生活になるんだろう。
≪つづく≫