4ヶ月前の2021年3月。
コタのとある書類を提出しに役場へ行った時の話である。
その書類提出には私の聞きとりが必要なため、社会福祉士さんとその書類の申請担当のKさん、そして私の3人で面談をした。
当時、夫と私は史上最大のケンカの真っ最中で、私は夫婦生活にも育児にも人生にも疲れ果てていた。
本当はこの面談にも行く気力が無かったが、夫に「代わりに行って欲しい」と言えず、と言うより夫に何かを頼むのが癪で、重い心を引きずりながらなんとか役場に来ていた。
初めて会うKさんに自己紹介をした後、しばらく雑談をした。
Kさんは私のことをすごく気遣ってくれた。
そしてKさんは、「私の娘はもう30になるんだけどね、うちの子も発達障がいなのよ」と言った。
私はこの時期、
『発達障がい児の子育てをメインで(専業主婦・主夫などで)やっている人・やってきた人としか話をしたくない』
と、心を閉ざした状態だった。
今は色んな手助けをしてくれる人の言葉をありがたいと素直に受け止めることが出来るが(完全にでは無いけれど)、
この時は『どうせ皆他人事。どうせ誰も私の気持ちは分からない』と思っていた。
Kさんとの話は、お互い「分かる分かる~」のオンパレードだった。
Kさんは、「子どもの幼稚園と小学校が辛かった。周りの子、周りのお母さんとどうしても比べてしまう。なんで自分だけ、と。すべてが敵に見えた」と言った。
今、
私はその状態だ。
私を心配して子育て支援センターに誘う声すら、敵に感じてしまう。
支援センターで他のママ達と話したら気が晴れる?
ふざけるな。
定型発達児の母親と何を話せと?
なぜみじめな気持ちになりに行かなきゃいけない。
あなたの自己満足でしょ。
ばかにするな―
普通の親にかけたら助けになる声が、
逆に私を追い詰めていった。
お子さんが小さかった当時、Kさんは仕事を全部辞めたらしい。
お子さんが地元の学校でいじめに合い、遠くの学校に転校し、その送迎をするためだった。
母親だけが全てを犠牲にしなければならない。
20年前のことなら尚更。
母親の生活だけが変わり、母親だけが世の中から隔離され、何かあったら母親だけが非難される。
目に見えない圧力。
その圧力に神経が研ぎ澄まされていく。
心が尖っていく。
「子どもを殴ってしまったこともあったのよ。
精神科に通って、薬を飲みながら育てたの」
20年前のKさんの姿が目に浮かぶようだった。
―私は。
1度だけ、コタに暴力をふるったことがある。
忘れもしない。2020年11月18日の朝。
前日の療育でぼろぼろだった私は、ほとんど眠れず重い気持ちを引きずったまま朝を迎えた。
ふと、隣ですやすや眠るコタを見た。
無性に腹が立った。
誰のせいで苦しんでいると思っているんだ―
私は、ぬいぐるみのもんきちでコタの足を2回叩いた。
コタは目を覚まし、「いたい」と泣いた。
私はそれからずっと、
これ以上の虐待をする前に早く死ななきゃと考えていた。
その時から比べると、3月は多少気持ちは落ち着いていた。
でも、人生を半ば諦めていたことに変わりはなかった。
私はKさんに、
「今は毎日をだましだまし過ごしています。
考えても何にもならないし、変わらないし、考えること自体疲れるし。
1日が過ぎていくのをただ待つ、という生活です」
と正直に言った。
Kさんは「それでいいのよ」と言った。
「乗り越えるのではなく、だましだまし、過ぎゆくのを待つ。
それでいい。
今は辛いけど、時間は流れていく」―
特に意見が一致したのは、自分の親についてだった。
「親には言えなかった」
「私も親には相談できないです」
育児の軽い愚痴などは母親に電話で話すが、発達障がい児育児の悩みは言えない。
それを愚痴られても母親は困るだろうし、気を使わせてしまうだろうなという遠慮がある。
それに、アドバイスをもらいたくなかった。
当事者ではない人からのアドバイスは、例え私のためを思ったことでもイライラしてしまう気がした。
また、私の姉は他界しており、私は両親にとって残された唯一の子ども(肉親)である。
その私が子を産んで『幸せに暮らしている』と両親は思っている。
だから、本当は育児が辛いこと、家が辛いこと、ましてや死にたいなんて思っていることは決して言えない。
とてつもない親不幸だ。
Kさんは、夫が優しかったからなんとか乗り越えられたと言った。
そして「絶対に旦那さんの手は離してはいけない」と私に言った。
私はそれに何も答えられなかった。
面談は雑談も入れて2時間近くかかった。
Kさんと社会福祉士さんは、本当に長いこと私に時間を割いてくれた。
それがありがたかった。
誰かにこんなに本音を喋ったのは初めてのことだった。
もちろん、全て一切合切を吐き出したわけではないが、だいぶ気持ちが楽になった。
…不思議だな。
子育てをするようになってから、
「苦しんでいるのは私だけじゃなかったんだ」
「みんなも同じことで苦しんでいる」
ということが救いになるようになった。
今までにない、不思議な感覚である。