昨夜やっていたドラマ「モコミ」。
モノや植物、ぬいぐるみのトミーと会話ができる、主人公のモコミ。
しかし突然、モノたちの声が聞こえなくなってしまった。
不安がるモコミ。
それを家族に打ち明ける。
母親は、「それが普通だもんね」と、娘がモノと喋れなくなったことを安堵する。
モコミも、「22歳にもなってトミーと寝ている方が変だもん。これが『普通』だから」と自分に言い聞かせる。
彼女のおじいさんだけ、「普通ってなんだ?」と家族に問いかける。
しかし誰もその言葉を聞かない。
母親の、そして世間一般の言う『普通』に、早く慣れようとするモコミ。
だが怖くてたまらない。
「私にとっては、モノたちの声が聞こえるのが『普通』だった」―
「自分が自分じゃなくなった」―
私はこの母親のようにはなりたくないが、
気持ちが分かるところもある。
日本では、集団において異質なものははじかれる。
だから子どもが「普通」であって欲しいと願う。
その方が、苦しむことが少ないし、
周りから白い目で見られることもない。
でも、
それではいけない。
『普通』の枠にはめるのではなく、
子ども自身が思う『幸せ』に導いていく。
コタにはそれが必要。
コタだけじゃない。
下の子にも。
自閉症スペクトラムだ発達障がいだ定型発達だ関係なく、
本来そういうものだ。
モコミが、おじいさんのことが好きで、おじいさんに本音を言う気持ちがよく分かる。
型に囚われない生き方。
考え方。
きちんと相手を見ること。
相手の気持ちを知ること。
そのままを受け入れること。
私にできるかな。