先日、療育園で、
H君とお友達がおもちゃの取り合いをしていた。
「貸して・どうぞ」がうまく出来ず、自分の思い通りにならなくて癇癪を起したH君。
H君のお母さんは、大マグロのようにびちびち暴れるH君を羽交い絞めにしながら、
「H、これが社会だ」と涼しい顔で言った。
私は、コタが癇癪を起さないように常に気を使っていて、
コタが癇癪を起したら「今の私の対応は失敗だったかな」と反省する。
つまり私は、「コタが癇癪を起すか起こさないか」を一番のベクトルとしている。
しかし、H君のお母さんは、H君が癇癪を起すことをたいした問題として無いように思う。
そんなH君のお母さんを見て、思った。
癇癪を起したっていいじゃん。
だって、療育は「社会」を勉強する場なんだから。
いっぱい癇癪を起こして、いっぱい失敗して、社会のルールを覚えていく。
その日、癇癪を起した回数をカウントしてため息をついたり、
癇癪を起したから今日の療育は失敗、今日は穏やかだったから成功。
そういうものではない。
ちまちました自分の対応に鑑みて、
私もH君のお母さんのように、もっと気持ちをどっしりと構えたいと思った。